私にとっては、お葬式ってなんだろう?で書いたように、過去に経験したお葬式、告別式はとても意味のあるものでした。日本でのお葬式も、いささか趣の違う海外のそれも、その意義は共通するものを感じます。では、「葬式無用論」とはどういった意見なのでしょうか。調べますと、過去にも何回か唱えられた事があったようです。
過去の「葬式不要論」
明治時代に起こった論議は、近代化と宗教の見直しの中で起こった論議と言われています。
自由民権運動家の中江兆民は、海外の文化に影響を強く受けた有名な思想家ですが、また最初に「葬式無用論」を唱えた人でもあるそうです。彼は「葬式不要。火葬場に送って荼毘にしろ。」と遺言しました。ところが、結局仲間の板垣退助が、宗教色を排除したお別れ会を開きました。ちなみに、これが一般にひろまり「告別式」となったと伝えられています。残された人々のためでもある葬儀の本質が現れたエピソードですね。
昭和40年代にも議論がありました。稲田務氏(京都大学名誉教授)は昭和43年に「葬式無用論(葬式を改革する会)」を発行し、「儀式が立派であると素朴な情からかけ離れてしまう。」と論じています。また「顔の広さを誇示するため、多数の人々に貴重な時間をムダにしている。」と批判しています。
高度経済成長期の中、葬式が華美に走っていたという背景があって興った議論だと言われています。
現在の「葬式不要論」
では現在の「無用論」はどうでしょうか。
どうも理由としては、お葬式が形骸化し意味がない、費用や時間がかかりすぎるといったもののようです。また、その底にあるのは、バブル時代を通じて派手になってきた葬式への反動や、人々の生活から家族親戚、ご近所、仕事場での人間的付き合いが希薄になっている(一部メディアでは無縁社会と表現していますよね)、また宗教の形骸化があげられます。と言うことは、全体として過去の無用論の理由と、本質的に同じだと思います。
いっぽう、過去とは違い、現在においては家族のみの密葬「家族葬」や宗教色の無い「火葬儀」、「直葬」が珍しいものではなくなっており、ご自分で準備できなければ葬儀サービスがあります。ですので、本来の意義を考えれば「葬儀は無用だ!」と叫ぶ必要は無い時代に、すでになっているという事なのでしょう。
次に、お葬式の歴史からその本来の目的を考えてみようと思います。また、お葬式を実施する方法は、古今東西、人間の歴史上にどのようなものがあるのでしょうか。